ミステリー・サークル(Crop Circle)
イギリスを中心に世界中で報告されている、穀物が円形(サークル形)に倒される現象、あるいは、その倒された跡。
「円」が複数組み合わされた形状や、さらに複雑な形状のものもある。
日本では「ミステリー・サークル」と呼ばれているが、
海外では「Crop Circle」(クロップ・サークル=穀物の円)と呼ぶのが一般的。
1980年代に謎の現象として世界的に注目され、宇宙人やUFOの仕業とする説など、さまざまな仮説が示された。
また、90年代に入ってからは製作者による告白や懐疑派による検証が進み、人為的なものという考えが主流となっている。
しかし、現在でも説明のつかない多くのミステリー・サークルが発見されており、中には本物が紛れ込んでいるという説も存在する。
ミステリー・サークルについては、かなり詳しい調査が行われている↓
http://www.nazotoki.com/crop_circle.html
下部の考察サイトがええな
ミステリー・サークル その2
1991年、イギリスに住むダグ・バウワー、デイヴ・チョーリーという2人の老人が、
「自分たちがミステリー・サークルを作った」と告白した。
2人によれば、彼らは1978年頃からミステリー・サークル作りを行うようになったそうだ。
最初は年に1つ~2つ程度だったが、1982年頃から話題になり始めると作る個数を増やし、最終的に250個以上作ったと見られる。
しかし深夜での作業の上、高齢による体力の低下や、ダグの深夜の外出に疑いを抱いた妻のアイリーンが難詰したため、妻に作業を告白。
途中から彼女も加えた3人での作品作りになり、ミステリー・サークル信者に混じりアイリーンも「作品」の出来ばえを喜んでいたという。
彼らが自分たちの仕業だと告白した理由は、
「クロップ・サークルを宇宙人や超常現象と結びつける人があまりに増えすぎたせいで、
国家を始めさまざまな公共機関でこの現象が議論され始め、自分たちのせいで税金が無駄にされると考えたから」である。
また、その後2人の老人は簡単な道具と人力によって立派なミステリー・サークルが比較的短時間で作れることを実演してみせた。
ダグとデイヴ
よくもまあこんなに集めたもんやな
ただいまやで~
ミステリー・サークル その3
現在においても、ミステリー・サークルは超自然的・或いは宇宙人によるものという話題が度々挙がる。
その根拠となる仮説(A)と異論(B)の一部を、記事サイトを参考に箇条書きしておく。
[A]サークル周辺には人の足跡がない
[B]重機の通り道を使う方法、棒を使った軽い高跳びの方法、
円と円を結ぶ細い線を作り、できてしまった足跡を倒した草で隠すなどの方法が告白されている。
[A]「本物」のサークルにある作物は折れずに曲がっている
[B]本物とされたサークルでも実際は茎が折れている部分があり、人が作る場合、踏み板で圧力が分散して茎が折れないことも多い
[A]「本物」のサークルでは、作物の内部で細胞レベルの変化が起きている
[B]この話ではW. C.レーベングッドによる実験がよく挙げられる。
しかしこの実験は二重盲検法が用いられておらず、相関関係と因果関係を混ぜていたりと初歩的な間違いが多いとされる
[A]「本物」のサークルでは、倒れた作物が三つ編み状に織り込まれている。
[B]ダグとデイブが作ったサークルでも、
板を踏む(板を回転するのがコツ)だけで自然に作物が三つ編み状に織り込まれていくことが確認されている。
[A]白い発光体がミステリーサークルを作成する瞬間がビデオで撮影されている
[B]これは「オリバーキャッスルビデオ」と呼ばれるもので、後の調査によりCGを使った合成であることが判明した
など
現在では円形にとどまらず、難易度の高いサークルが作られている
ダグとデイヴ以外にも、彼らに影響されて発足したチームが多く存在するそうだ
ピラミッド(Pyramid)
エジプトや、中南米などに見られる四角錐状の巨石建造物の総称。
特に「ギザの大ピラミッド」(クフ王のピラミッド)は、
古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つであり、現存する唯一の建物として有名。
ピラミッドは未だ多くの謎に包まれた、世界有数のミステリーの1つである。
ピラミッドの雑学は以下の記事で挙げられている↓
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52182015.html
古代エジプトのピラミッドは巨石を四角錐状に積み上げ、中に通路や部屋を配置した。
一般的に奴隷の築いた王墓とされてきたが、現在では建設現場に居住する専属の労働者がいたことが判明している。
農業ができない間、農民を労働力として使う「救済土木事業説」もあるが、それに関する論文などは存在しない。
ピラミッドが「いつ」「誰が」「どうやって」作られたかという点についてはおおむね解明されていくものの、
「なぜ」作られたかについては定説が無い。
最も有名な「王墓説」は王家の墓が別に発見されることから否定される傾向にあり、
「日時計説」「穀物の倉庫説」「宗教儀式神殿説」「天体観測の施設説」も後の研究や物証によって有力説になりにくい現状がある。
また、仮説は実証を伴わないアイデアに留まる傾向が多く、
そのため一周回ってやはりピラミッドは「王墓」であるという説明が続けられていることが多い。
ピラミッド その2
ピラミッドの建設方法については、これまでいくつか仮説が立てられた。
約2500年前にギリシャの歴史家ヘロドトスがこの地を訪れた時にピラミッドの建設法を書き残しているが、
彼がここを訪れたのは建設2000年後のことで、「建設には10万人が20年かかった」という記録は疑問が持たれている。
従来、石材を積み上げるにあたっては、「作業用の傾斜路が作られ、その斜面を運び上げられた」と考えられてきた。
また、「長大な一本道が使われていた」という説もあった。
しかし、どちらにしても数トンの石をただの傾斜路で引き上げることができるという説明にはなっていないとされる。
他の仮説として、
「木の杭を使って石を切り出す→イカダと石を縛りつけてナイル川を下り、陸地では丸太を敷いてその上を転がして運ぶ。
最初に一番下の段を作り、その横に砂を盛り上げて斜面を作り、その上を引いて二段目三段目…と積み上げていき、それに伴い斜面もどんどん高くしていく。
そして最後に頂上に石を置いて砂をどければ完成する」というものがある。
一見、この方法で作れそうにも思えるが、実際には不可能であることが判明している。
また、ピラミッドの地中に隠れた基礎部分は四角柱の構造物だが、
地底何十メートルあるいは何百メートルに渡ってその建造が続いているのかは未だ確認されていない。
※画像はイメージです
→三大ピラミッドの配置(Placement of Great Pyramids)
三大ピラミッドは、エジプト・ギザの砂漠にある3基のピラミッドの総称。
隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージとなっている。
造営時期は紀元前2500年頃とされており、
「クフ王のピラミッド」(ギザの大ピラミッド)、「カフラー王のピラミッド」、「メンカウラー王のピラミッド」の3つから成る。
これらのピラミッドの配置には、オリオン座の三ツ星を表したものであるとする「オリオン説」がある。
実際にナイル川を天の川に見立てると、三大ピラミッドの位置がオリオン座の三ツ星の位置とほぼ重なり、
さらに三ツ星と三大ピラミッドを重ねるとその配置が一致するという。
しかし、学会では否定的な意見も多い。
また、火星に三大ピラミッドと配置が全く同じの構造物があるという話もあるが、こちらの正確性は不明。
確かにオリオン座にある三つ星と似ているが…
火星の構造物
→古代エジプト人も「最近の若いもんは・・・」と言っていた
古代エジプト人が「最近の若者はけしからんと言った」というのは有名な話として出回っているが、
これは民俗学者・柳田國男の書籍「木綿以前の事」にある記述と、
アナトリア博物館にある「ヒッタイトから古代エジプトに送られた粘土板」の俗説を混同した誤解だという説がある。
かなり詳しく調査してくれている記事↓
http://55096962.at.webry.info/201410/article_17.html※リンク切れ
似たような話に「プラトンも若者を批判していた」というものがあり、彼は「国家」第8巻でそれとも読める事を記述しているが、
「最近の若い者は…」とは言っておらず、同時に老人に対しての批判もおこなっているそうだ。
ギザの大スフィンクス(Great Sphinx of Giza)
スフィンクスは、エジプト神話やギリシア神話、メソポタミア神話などに登場する、
ライオンの身体と人間の顔を持った神聖な存在、あるいは怪物。
「ギザの大スフィンクス」は三大ピラミッドのそばにある巨大な石像で、スフィンクスといえばこれをイメージする事が多い。
定説では紀元前2500年頃、第四王朝カフラーの命により第2ピラミッドと共に作られたとされる。
根拠としては、発掘された碑文の最後に「Khaf」の文字があった事、スフィンクスの顔がカフラーに似ている事などが挙げられる。
一方で、碑文にはカルトゥーシュ(王の名を囲む円)がないので王の名かどうかは疑問であり、
現存するカフラー像とスフィンクスはあまり顔が似ていないという反論がある。
また、体に比べて顔の大きさのバランスが悪いとして、顔だけ後になって彫りなおされたという主張もある。
考古学者以外では、自然科学のロバート・ショックが、スフィンクス本体や周囲の囲いに降雨による水の浸食が認められる事と、
かつてエジプトで長い期間に大量の降雨があった時代から、紀元前7000年頃(ピラミッドより前)に建造されたという推測を出している。
→スフィンクスと侍の写った写真
1998年に河田家で発見された写真。
幕末期、交渉のためヨーロッパを訪問した外交奉行・池田筑後守長発たちの一行が、
途中エジプトを経由し、その際ギザのピラミッドを訪れている。
この時、スフィンクスを背景に記念写真が撮影された。
写真には24人ほどの和服姿の日本人が写っている。また、スフィンクスに登ろうとした侍もいたとみられる。
幕末とほど近い1838年に描かれた絵。写真と同様に、胴体のほとんどが埋没している事が分かる。
詳しいことはわかってない
ボスニアのピラミッド(Bosnian Pyramid)
世界最古のピラミッドは、
紀元前2700年に建てられた古代エジプト第3王朝時代の「ジェセル王のピラミッド」(サッカラのピラミッド)とされている。
しかし、東欧のボスニア・ヘルツェゴビナから、紀元前1万年前に建てられたピラミッドが見つかったという。
2006年にNational Geographicがこのニュースを取り上げた事で有名になった。
地元のアマチュア考古学者であるSemir Osmanagic氏が同国の町、ヴィスコにある小さな丘をピラミッドであると主張しており、
それは全部で5基が確認されているという。
外観はただの山のようだが、地下には計10マイル以上の複雑なトンネルが存在しており、これが根拠の1つとなっているそうだ。
また、建設時期は1万2000年前と推定されており、これが証明されれば世界最古の記録を大幅に更新することになる。
この主張について、考古学者たちは異論を唱えている。
英語版Wikiでは、
Osmanagic wishes to excavate in order to “break a cloud of negative energy, allowing the Earth to receive cosmic energy from the centre of the galaxy”
などの(違う意味で)ヤバそうな記述が見られる。
南極のピラミッド(Pyramids in Antarctica)
米国の研究者らが中心となって構成されている国際チームから、
「南極大陸で氷に覆われた古代のピラミッドを3つ発見した」という発表があった。
これは2012年の情報らしく、Youtube上に「Ancient Pyramids Found In Antarctica?」というタイトルで写真が載せられている。
詳細は一切不明だそうで(この機関の詳細も不明)、3枚の画像が公開されるのみとなっている。
調査はアメリカとヨーロッパにある8つの探検隊が合同で行ったものであるとされており、
発見された3つのピラミッドのうち2つは、海岸から内陸に16㎞入った場所にあり、もう1つは海岸線に非常に近い場所にあったという。
一般的に南極大陸は1000~2000mの厚い氷の層となった氷雪(氷床)に覆われているとされているので、
その上にピラミッドがあるとすれば近年に作られたもの、または氷床から外れた部分に建てられたという事になる。
サクサイワマン遺跡の石壁(Stone walls of Saksaywaman)
サクサイワマンは、南米にあるインカの遺跡の1つ。(上述の「逆さ岩」も参照)
この地帯の石壁は、インカ帝国の9代皇帝パチャクティの命によって1438年以降に建設が開始されたといわれている。
「サクサイワマン城砦」とも呼ばれ、砦として作られたという説もあるが、
宗教施設という説や、双方を兼ねた建造物などの諸説があり、確定はしていない。
遺跡は巨石を惜しみなく用いたインカ文明特有の堅固な石組みが階段状に3段ずつ、
幅数百メートルの平地を挟んだ南北の丘に築かれている。
大きな石組みは200t~250tといわれ、それぞれの石がカミソリ1枚も入らないほど隙間なく、精巧且つ頑丈に組み合わせられている。
鋭利な切断面を持たせるように石を加工しなければこのような壁は作れず、
石を打ち付けての成形では限度があり、人力での加工は不可能という説がある。
岩盤の中を通る狭い水路とかも、ここやったっけか?
ああいうのもどうやって造ったのか全然解らんらしいけど
それはクンベ・マヨやね 同じペルーだけど
珊瑚の城(Coral Castle)
アメリカ・フロリダ州マイアミから最南端のキーウエストヘ向かう途中にある、珊瑚で作られた城。
この城を作り上げたのはラトビア出身のEdward Leedskalninという男性。
1900年代初め、彼は当時16歳の婚約者Agnes Skuvstに、結婚式の前日に婚約を破棄されてしまう。
傷ついた彼は生まれ故郷を離れ、各地を転々としながらフロリダに辿り着き、
この地で彼女との結婚生活を夢見て30年に及ぶ珊瑚の城の建造に没頭した。
Leedskalninは平均30tと言われる珊瑚岩を、誰の手も借りず、木片と鉄くずから作成した工具で作り上げたと言われている。
工法も彼独自のもので、例えば表玄関の回転扉は約9tの珊瑚岩から作られているが、回転軸が精密に計算されていて軽く押すだけで開く。
城に使われた珊瑚の総重量は1,100tとされており、小柄な男性だった彼がどうやって運搬・加工を行ったのかは未だ謎が多い。
また、Leedskalninは質問に答える形で「インカ人や古代エジプトのピラミッド建設者が知っていた石細工とテコの秘密を再発見した」と述べている。
彼は奇人変人という扱いも受けており、語られた製造過程もどこまでが真実なのかは分からない。
車のエンジンを改良した道具を使ったなどの仮説もあるが、未だ解明には至っていない。
悲恋の男 Edward Leedskalnin
建造に使用された三叉と、頂点にある謎のボックス
オーストリアだったかに、小石で似たようなことやったのがおるよな
>>171
おお、サンガツ
オーストリアかは分からないけど、フランスに1人で作られた石造りの建物があるみたいやね
→「シュヴァルの理想宮」(Palais ideal of Cheval)
フランスの郵便配達員、フェルディナン・シュヴァルが33年の月日をかけ、1人で完成させた建造物。
現在、フランス政府により国の重要建造物に指定されている。
石の運び方や建造方法は判明しているが、彼は素人であり、独学とイメージ、そして飽くなき情熱でこの理想宮を完成させた。
おおこれやこれ
こういう人はきっと幸福なんやろなあ
ニューグレンジ(Newgrange)
アイルランド・ミース州のブルー・ナ・ボーニャ遺跡群にある羨道墳の1つ。
1699年に発見された世界的に有名な先史時代の遺跡の1つであり、アイルランド島で最も有名な遺跡とされる。
紀元前3100年~紀元前2900年の間に作られた。
1年で最も日が短い冬至の明け方、
太陽光が長い羨道(玄室に続く通路)に真っ直ぐ入射し、部屋の床を短時間だけ照らすように建設されている。
現在は日の出から4分後に日光が射し込むようになっているが、
地球の歳差に基づいて計算すると、5000年前には日の出と同時に日光が射し込んでいた。
太陽光は、このために考案されたと思われる「ルーフボックス」と名付けられた入り口すぐ上の開口部から射し込む。
考古学界ではニューグレンジは墓だとする説が優勢だが、天文学や工学、宗教的な施設という説も挙げられており、目的は不明。
天文学的なタイミングの良さが絡んでくると興奮してきちゃうヤバいヤバい
やっぱ季節に対する感覚が鋭敏なんすねぇ
モヘンジョ=ダロ近くのガラスになった町(Destroyed City by Atomic Bomb nearby Mohenjo-daro)
モヘンジョ=ダロは、南アジア・パキスタンにあるインダス文明最大級の都市遺跡。
紀元前2500年~紀元前1800年にかけ繁栄した。
古代核戦争の研究者デビッド・ダヴェンポートは、遺跡から5kmほど離れた場所で、
現地の住人が「ガラスになった町」と呼んで近づかない場所を訪れたと報告している。
そこは黒いガラス質の石が800m四方をびっしり覆っている場所で、石はテクタイト(或いはトリニタイト)とされている。
付近では溶けてくっついたレンガや、ねじ曲がったり気泡が混じってガラス化した壺の破片などの遺物も見つかったそうだ。
このように広範な範囲の砂が溶けてガラス化するという現象はこれまで自然界では確認されておらず、
今のところ地表で核実験が行われた場所(砂漠)でしか見つかっていないという。
また、壺が原形を保ちながら溶けかかった状態で固まるという現象は、超高温の熱を極めて短時間に受けることを想定しない限り考えにくい。
ダヴェンポートはモヘンジョ=ダロで発見された遺物の分析を依頼した結果、
1000度~1500度の高温で短時間に加熱されたという結果が出たと報告している。
これらの研究結果から、
「有史以前の地球に近代人の知らない超古代文明が栄えていたが、核戦争により滅亡した」とする「古代核戦争説」(Ancient Nuclear Warfare)が提唱された。
モヘンジョ=ダロは現地の言葉で「死の丘」を意味する。
上述の研究結果に対しては異論も唱えられている。一部を箇条書きしておく
・モヘンジョ=ダロが核攻撃されたのであれば、
攻撃した側の文明に核兵器を製造する高度な技術がある筈なので、この地に超古代文明を求めるのは無意味である、という意見がある。
・核爆発の後遺症があまりにも局所的で、一部のレンガのガラス化では核爆発の後遺症を完全に説明できない。
・ダヴェンポートは「ガラスになった町」について、地元でタブーとされている場所として正確な場所を明らかにせず、第三者は確認していない。
・インダス文明を研究する考古学者の近藤英夫教授は、NHKの取材でガラスになった町について
「モヘンジョダロは何度も訪れたが、見たことも現地で話を聞いたこともない」とコメントしている。
もし「ガラスになった町」が実在しないのであれば、そこから発見されたとされる遺物の信憑性も失われることになる。
・数十体の遺体が見つかっているが、モヘンジョ=ダロはインダス文明期以降も洪水や火災が原因で興亡を繰り返していたことが判明しており、
さらに一時期はスラムと化していたこともあったので、放置された死体が見つかってもおかしくはない。
このほか、古代核戦争を想起させるものとして、古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」「リグ・ヴェーダ」が挙げられており、
ここには想像だけで書かれたものとは思えない、核爆弾が被弾した状況によく似たシーンが描かれているといわれる。
やっぱ場所を誰も知らんっていうのがなあ
融解した土器(Melted Earthenware)
モヘンジョ=ダロで発掘された、融解した土器とされるもの。
1000度~1500度以上の高温と冷却が短期間に起こり、火ぶくれがそのまま固まって気泡となっているそうだ。
モヘンジョ=ダロは、高温の蔵焼きレンガを使って建物を建設していたが、それでは急激な温度変化の説明がつかないとされる。
また、土器が高温によりガラス質化した写真もある。穴があいているのは、高温で気化してしまったからのようだ。
→核爆発を受けた容器の例
日本には、実際に核爆発で融解・加熱された容器が多々存在する。
広島市にある広島平和記念資料館には、これらの遺物同様、
半ば溶けかかりながらも原形を留めたガラス製の一升瓶や、表面のみが溶けた瓦などが展示されている。
→古事記にある核爆発の描写
話半分で聞くべき内容だが、面白かったので載せておく。
古事記の上巻、くに譲りの段の一節に、
「建御雷男(タケミカヅチノオ)神、十掬ノ剣ヲ浪ノ穂ニ逆ニ刺シ立テソノ先ニクミ坐テ」という記述がある。
ある書籍でこれを著者のイメージとして描いたところ、核爆発のように見えるとして話が広まった。
マチュ・ピチュ(Machu Picchu)
南米・ペルーの山の尾根、標高2,430mにある15世紀のインカ帝国の都市遺跡。
アンデス文明は文字を持たないため、この遺跡が何のために作られたのか、首都との関係など、その理由は分かっていない。
山裾から遺跡の存在が確認できないことから、しばしば「空中都市」などと称される。
また、マチュ・ピチュはケチュア語で「老いた峰」を意味する言葉で、本当の都市名ではない。
遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。石の建物の総数は約200戸。
建造方法は、石垣をぴったりと重ねて積む方法は石で石を叩いたり、削ったりしたと考えられている。
しかし、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がないため、どうやって5-10tもある巨石を運んだかは未だ謎であるとされている。
以前は「突然人が消えた文明都市」という扱いもあったが、この都市は通常の都市ではなく、
王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や田舎の別荘といった種類のもので、住人は最大でも750名しかおらず、
雨季や王族が不在の時は、ほんの一握りの住人がいたのみと判明している(少数の男女の遺体も見つかっている)。
最大の謎として、「なぜこのような急峻な山の上に造ったのか」というものがあるが、
今のところ宗教的な理由(太陽が近いなど)が推測されているに過ぎず、解明には至っていない。
空中都市いうわりに浮いてた事すらないと知ってなんかガッカリした思い出
沖縄県与那国島の海底遺跡/与那国島海底地形
沖縄県八重山諸島にある与那国島南部の海底で発見された構造物。
1986年に、ダイバーが海底に巨大な一枚岩を発見したのが最初と言われている。
一枚岩は周囲数百メートルに及ぶ巨大なもので、人工的に切り出したような跡や、階段状になった部分、人が歩けるほどの通路らしき部分が存在することが判明した。
1992年以来、琉球大学理学部教授(現:琉球大学名誉教授)の木村政昭を中心として調査が行われ、
1998年には沖縄県文化局に「遺跡発見届け」が提出されている。
沖縄県側では、人が関与した痕跡があると判断できないとの理由で遺跡としては認定していない。
観光的には「遺跡ポイント」として売り出しており、遺跡であるかどうかはさておき、与那国島の貴重な観光資源となっている。
この地形については、「人工的な構造物である」とする立場と、「自然地形である」とする立場からいくつかの説がある。
しかし、遺跡説が考古学や地質学関連の学会で提示されていないこともあって、
両者の議論は沖縄県内の学者によるものにとどまっており、関連学会においては学術的な検討の余地にも入っていない。
人工的な構造物説を国内の学会において発表しているのは木村教授のグループのみであり、その学会も考古学や地質学を専門とするものではない。
また、木村教授に対しては、考古学的・地質学的調査が未実施、論文発表がない、精確なデータを提出していない等の批判がある。
沖縄県与那国島の海底遺跡/与那国島海底地形 その2
発見者のダイバー、新嵩喜八郎氏は「古代文明遺跡説」も提唱している。
この地形が遺跡であれば、水没したのは(動植物の分布や鍾乳石等から)前回の氷河期が終わって海面が上昇した時期である、
という説があり、これが事実ならばこの遺跡は「1万年以上前の世界最古の古代遺跡」ということになる。
また、新嵩喜八郎氏主催の与那国海底遺跡博物館のウェブサイトでも、
約1万年前の海面上昇により水没したことがはっきりしてきたと記述されている↓
http://www.yonaguni.jp/yum.htm
もう1つ、興味深い噂として、周辺の「サンニヌ台」「軍艦島」(軍艦岩?)「立神岩」「海底遺跡」が、
グーグルアース上で見ると一直線上に存在し、これら全てが連続した石切り場であるという話がある。
バルト海の海底に沈む物体(Baltic Sea anomaly)
2011年、北ヨーロッパに位置する地中海のバルト海で、
難破船やヴィンテージのシャンパンなどを探す発掘チーム「オーシャンX」が海中をソナースキャンしている最中、
円形の奇妙なオブジェクトを発見したと発表した。
海面から87m下に、60mの直線、及び円形のコックピットの様な物体が見つかっており、
その後ろには何かが海に墜落し、ひきずったようなラインが300m続く。
このことから一部では物体がUFOではないか、もしくは旧ドイツ軍が廃棄した兵器ではないかという憶測が飛び交った。
イスラエルの研究者の発表によると、構造物にはリモナイトやゲータイトなどの金属も見つかっており、人工物の可能性があるという。
また、物体は花崗岩に覆われており、ストックホルム大学の海洋地質学者の話によると、
そこから得られた情報によって14,000年前のものではないかと推測されている。
ネットユーザーからは映画「スターウォーズ」に登場する宇宙船「ミレニアムファルコン号」に似ているという小ネタも投稿された。
現在まで正体は明らかになっていないが、肝心の発見者「オーシャンX」が調査を停滞させているといった話もある。
イメージ?
ミレニアム・ファルコン号
サントリーニ島のアクロティリ遺跡(Acroteri on Santorini Island)
サントリーニ島はエーゲ海南部に位置するギリシャ領の島で、断崖の上にある白い建物群などは有名な観光地となっている
島内の南部ではヨーロッパで最も古い文明の1つといわれるミノア文明の大規模な港湾都市遺跡「アクロティリ遺跡」が発見・発掘されており、
その高度さから、古代ギリシャの哲学者プラトンが伝える「一夜で沈んだ高度な文明社会」という「アトランティス大陸伝説」のモデルではないかとして有名になった。
本島であるティーラ島(サントリーニ島)は紀元前1628年頃、海底火山の爆発的噴火(ミノア噴火)によって島の半分が吹き飛んだともいわれる惨状にみまわれた。
この爆発的噴火はエーゲ海一帯に惨禍をもたらし、プラトンが提唱したアトランティス伝説の内容に大きな影響を与えたといわれている。
また、幻の大陸アトランティスのもう1つの有力なモデルが、南にある「クレタ島」で、ここでも本島と共にミノア文明(クレタ文明とも呼ぶ)が栄えていた。
ミノア文明の背景を明らかにするには「線文字A」(別項目参照)の解読や、宮殿の情報の整理、聖域などについての更なる発見が必要とされており、今も研究が続いている。
サントリーニ島。女子の方がよく知ってるかも
→アトランティス(Atlantis)
古代ギリシアの哲学者プラトンが、著書「ティマイオス」「クリティアス」の中で記述した、
紀元前10,000年頃に存在した大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国。
強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。
両作品は、プラトンの師匠ソクラテス、数学の教師ティマイオス、曾祖父クリティアス、政治家・軍人ヘルモクラテスの4名の対談の形式で執筆されている。
1882年、アメリカの政治家イグネイシャス・ドネリーが著書「アトランティス – 大洪水前の世界」を発表したことにより、
アトランティスは謎の大陸伝説として一大ブームとなり、更にオカルトと結びつくことで多くの派生を生んだ。
近年の研究では、火山噴火が影響して紀元前1400年ごろに突然滅んだサントリーニ島の「ミノア王国」がアトランティス伝説のもとになったとする説が提唱されている。
また、「ヘラクレスの柱」(一般にはジブラルタル海峡)をダーダネルス海峡であるとし、古代トロイア文明と重ねる説もある。
しかし、大西洋のどこかにアトランティスがあると信じる人間も未だ存在する。
NHKの番組「幻解!超常ファイル」では、「人が堕落すると国が滅びる」というプラトンの思想と、
当時プラトンの祖国アテナイは戦争に走り、国民は法を守らなくなるという状態になりつつあったため、
それに対する警告の意味でこの伝説を書いたという説を紹介している。
ナン・マトール遺跡(Nan Madol)
ナン・マトール遺跡は、オーストラリア近く、ミクロネシア連邦のポンペイ島にある13世紀~15世紀の遺跡群。
Nan Madolは「天と地の間に広がる空間」を意味する。
1931年に「失われたムー大陸」を著したジェームズ・チャーチワードが、ナン・マトールこそが太平洋上に位置し、
高度な技術と権力があったムー大陸(Mu)の聖都であると述べた。
ムー大陸は1万2000年前に突如太平洋の海中に水没した大陸と言われている。
この発言でナン・マトールは世界的に知られることになり、現在でも観光客が訪れる遺跡名所となっている。
ナン・マトールの巨石群が建造されたのはシャウテロール王朝時代であり、
この海域で約1000年かけて完成させたとも、不思議な力により一夜にしてできたとも伝説が残っている。
この海上都市(複数の島々に渡る)の玄武岩巨石群をどこからどのように運び、どのようにして緻密に積み上げたのかは解明されていない。
観光ガイドには外敵からの要塞の目的でこの都市が造られたとも書かれているが、都市が建造された目的は未だ分かっていない。
ケニア・エンゲディ遺跡(Ruins of Gedi)
東アフリカのケニア、マリンディ奥深くの森林地帯にある遺跡。
未だに多くの謎が残る失われた都市として、ジャングルの中にひっそりと佇んでいる。
一部の城壁、柱と土台のみを残し、3000人のコミュニティーが存在していたと推定され、当時としてはかなり高度な文化があった。
1948年に発見されて以後10年間にわたり発掘調査が行われた結果、
ヴェネツィアのものと思われる遺物、スペイン製の遺物も発掘されており、ヨーロッパと貿易をしていたことが判明している。
さらに、中国の明王朝時代の硬貨や花瓶、インド製のランプも発掘された。アラブ圏のイスラム系のモスクも存在していたという。
このような高度な文明を持つ都市がなぜ消失したのかという原因に関しては、考古学者たちの間で論争が行われている。
こんな場所にも凄い文明あったんやね
オレゴン・ヴォーテックス(Oregon Vortex)
アメリカ・オレゴン州ゴールドヒルにあるミステリースポット、娯楽施設、観光名所。
入場料は12.5ドル(約1500円)。
施設の所有者は超自然現象の起こる地だと主張しているが、人間の錯視を利用したものという懐疑的な見方もある。
物体の重さが変わったり、光が屈折したり、磁気が乱れたり、箒が自立したりと様々な現象が確認されている。
一部トリックアートを用いて誇張した宣伝もされアミューズメント化しているが、
実際に解明できない現象も起き続けているという。
人間は「建物の壁は垂直で、床は水平だ」と無意識のうちに思いこんでいるが、その前提が崩れていると感覚的な混乱をきたす。
オレゴン・ヴォーテックス内にある多くの建物には、このような錯覚を起こさせるための様々な仕掛けが施されている。
同じような施設として、岐阜県の「養老天命反転地」、ペンシルベニア州の「ローレル・ケイバーン」などが挙げられる。
名物:傾いた建物
箒の自立
立つ位置によって身長が変わる柱。錯視によって互いが直線上で向き合っているように見える(動画参照)
https://www.youtube.com/watch?t=17&v=743oy55RqX4
養老天命反転地(日本/岐阜県養老町)
弾丸が貫通した頭蓋骨の化石(Rhodesian Man With Bullet Hole In The Head)
1921年、アフリカ南部・ローデシア(現:ザンビア)のブロークンヒル鉱山で働いていた労働者が、人間の骨の化石を発掘した。
化石となった人物の頭蓋骨には、弾丸のようなものが貫通した痕跡が残っていた。
化石は分析の結果ネアンデルタール人と同じ種類と判断され、やがてアフリカを代表する化石人類「ローデシア人」と名付けられた。
穴は綺麗でなめらかな状態で、、矢じりや石器などの原始的な武器でつけられた傷、獣に襲われた傷とは考えにくいものだった。
しかし、ローデシア人の化石が埋まっていたのは地下18m、地層は推定10万年前のもので、当然銃火器は開発されていない。
素人考えでは、例えば何らかの自然現象によって高速で飛んできた石ころが頭蓋骨を貫いた…という仮説が思いつくが、定かではない。
ベルリンの法医学者が調査したところ、高速で発射された物体が貫通した痕という結論が出たという話や、
穴には治癒した痕があるため外傷性のものとは考えにくい、といった話も挙げられている。
人間と恐竜の足跡/デルト・トラック(Paluxy River Dinosaur & Man Track)
「白亜紀の人間の指」でもおなじみのアメリカ・テキサス州グレンローズ。
この地域を流れるパラクシー川の白亜紀の石灰岩層で、人間の足跡の化石とされるものが見つかっている。
1910年頃に発見されたようで、川床に恐竜と人間の足跡が同時に存在し、人間の足跡は35cm~40cmあり、身長は2m以上と推測された。
1980年代から本格的な調査が始まり、考古学者のカール・E・ボウは川沿いに博物館を建て、
創造論における「人類と恐竜の共存」を証明するべく発掘プロジェクトを開始した。
削岩機などで石灰岩層をはがす1982年の実験では恐竜の足跡が40個以上、人間の足跡が10個以上も出てきた。
そのうち1つの人間の足跡はかかと部分が踏みつぶされるような形状で、恐竜の足跡と重なっていた。
これには地元メディアも騒ぎだし、恐竜時代に人間がいた証拠として大きく報道した。
また、発見された人の足跡と現代人の足跡の類似度を算出すると、90%近く相似していた結果が出たという。
その後、時期は不明だが、小型恐竜の足跡を人間の足跡に見えるよう細工している現場が押さえられたそうだ。
踏まれた三葉虫の化石(A Fossilized Human Footprint and Trilobite)
1968年、アメリカ・ユタ州でアマチュア化石収集家が奇妙な化石を発掘した。
それはカンブリア紀の5億7000万年以上前の地層から掘り出された三葉虫の化石だったが、
化石を調査していく段階で、三葉虫を踏みつけている靴のような足型が共に化石になっている事が判明した。。
くつ跡の長さは約25cmで、かかとの厚さは約1cmあった。そして、履き古したように外側部分が浅くなっていた。
足型の中には3匹の三葉虫が確認できるが、大きな石などで潰されたようには見えず、綺麗に踏まれているそうだ。
「単に重なり合ってそう見えるだけ」「靴跡に見える化石自体が巨大な三葉虫」などの推論・反論もある。
三葉虫の一種
アレキサンダー大王時代の墓(The tomb of Alexander the Great’s relatives)※未知の遺物ではない
「アレクサンドロス3世」は、紀元前336年~紀元前323年まで在位した、アルゲアス朝マケドニア王国の王。
英語読みでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とも呼ばれる。
旧約聖書やコーラン、シャー・ナーメ、ゾロアスター教など多様な民族の教典にも登場する英雄だが、彼の墓は未だに見つかっていない。
遺体はバビロンから王都ペラへ移送途中にプトレマイオスに強奪され、ミイラとしてエジプトに埋葬されたといわれている。
そんなアレクサンダー大王時代の墓が2014年11月、ギリシャのアンフィポリス遺跡内にあるカスタ・ヒルの墳墓で見つかった。
墓から見つかった人骨は、妻のロクサーヌ、或いは母のオリンピアスともいわれている女性のもの。
この墳墓ではこれまでに美しいスフィンクスや複雑なモザイク画も見つかっており、墓の主は非常に位の高い人物だったという説が有力視されている。
ただ、墓がアレクサンダー大王自身のものである可能性は低いとみられている。
ノアの方舟(Noah’s Ark)
旧約聖書の冒頭に書かれた「創世記」に登場する、主人公ノアと家族、多種の動物を乗せた方舟。
創世記の内容は、「神が7日間で世界を創り、男女が蛇の誘惑で楽園を追放」(1~3)、
「最初の殺人:カインとアベル」(4:1~16)、「ノアの方舟」(6:5~9:17)、「バベルの塔」(11:1~9)などが続いていく。
また、旧約聖書の洪水伝説は、古代メソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」の洪水伝説の影響を受けているという説がある(描写が似ている為)。
ギルガメシュ叙事詩の内容を簡単に書くと、
「ウルクの王ギルガメシュと、神が彼の競争相手として創ったエンキド(エンキドゥ)は力比べをするが決着つかず、
やがて2人は親友となり、さまざまな冒険を繰り広げる。
しかし、冒険の果てに神の怒りを買ったエンキドは死んでしまい、ギルガメシュも死を恐れて永遠の命を求める旅に出る。
その後、ギルガメシュは神(風と嵐の神エンリル?)が起こした大洪水から『方舟』を作って逃げることで永遠の命を手に入れたウトナピシュティムに出会う」
といった物語になっている。
ノアの方舟物語の内容を簡単に書くと、
「神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと『神と共に歩んだ正しい人』であったノアに告げ、方舟の建設を命じる。
ノアは方舟を完成させると、妻と三人の息子とそれぞれの妻、すべての動物のつがいを方舟に乗せた。
大洪水は『40日40夜』続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。
その後、箱舟はアララト山の上にとまった」
といった物語になっている。
ノアの方舟 その2
旧約聖書内の記述から、方舟は古来より多くの学者や冒険家たちによって捜索されてきた。
現在までに、アララト山に漂着したとされる「方舟発見」(と主張される痕跡)の報告が何例か挙がっている。
・1世紀のユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスは「ユダヤ古代誌」の中で残骸を見たと記述している
・1883年の火山性地震により、ノアの方舟の残骸らしき古い木材建造物が一部露出。
トルコ政府関係者が調査するも、内部が崩落する危険性があり、途中で断念。
・1880年~1910年頃、帝政ロシアが大規模な捜索隊でノアの箱舟の残骸を捜索、かなりの成果を収めたらしいが、ロシア革命で資料が遺失。
・1960年代、駐トルコのアメリカ空軍によって、船影らしき長方形の黒ずんだ物体が、何度も確認された。
これらはアララト山北東斜面「北緯39°26′4″、東経44°15′3″、海抜1870m」付近のものが有力とされる。
・2010年、アララト山の山頂付近(標高約4000m地点)で、方舟の木片を発見したと、
トルコと中国の「キリスト教福音派」の考古学者ら15人からなる探検チームが発表。
炭素年代測定では、方舟伝説にある4800年前と同時期のものと判明したそうだ。
よく貼られている地形画像。方舟がとまった跡地…?
2010年の、木片が発見された建物らしき場所
引用元:http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1441004610/
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