江戸時代の「かごめかごめ」の解読
さて、前ページの続きですが、まずは、江戸時代に歌われていた「かごめかごめ」の歌詞がこちらになります。
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「かごめかごめ。籠のなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんにん。 つるつるつっペった。なべのそこぬけ。そこぬいてひーた。ひきぁもーれ。」
まず、この歌詞にある「かごめ」とは、前ページで紹介した
籠の目(六芒星)を表していて、こちらは同じです。
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ただ、ここで注目して頂きたいのは、「かごめ、かごめ」と2回続けて歌っている部分です。
ここを分かりやすくすると次のようになります。
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つまり、籠目(六芒星) 足す 籠目(六芒星)は、十二芒星となるのです。
次の歌詞、「♪籠のなかの鳥は~」
こちらの歌詞にある鳥はこちらの漢字の「 酉 」です。
前ページで「♪とりいは~」と歌う部分について、「鳥居」のこと。
…とされていましたが、こちらの解読によると、「 酉 、 亥 」となります。
・・・もうおわかりになったと思いますが、
「かごめかごめ」から導き出された「十二芒星」は…
干支、すなわち十二支を表していたのです!
ここまでをまとめると次のようになります。
「 かごめかごめ 。籠のなかの 酉 、 亥 は。いついつでやる」
ここまでで、どうやら埋蔵金は十二支の「酉と亥」の方角にあることがわかります。
歌詞「かごめかごめ」には、十二支の他にもう一つの意味があり、
それが「加護銘、加護銘」。
これは、「神の加護の銘」と言う意味だそうで、これは江戸時代の歌なので、「神の加護」とは徳川を表すとのこと。
つまり徳川の銘×2(かごめかごめ)となり、 これは、徳川の重要な2地点を表しています。
一つ目は、江戸城。
二つ目は、日光東照宮。
まず、徳川幕府(江戸幕府)の象徴とも言える江戸城を十二支の中心におきます。
そして、十二支で北の方角を指す「子」に日光東照宮を当てはめると次のようになります。
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ここで、もう既に「亥」の辺りに赤城山が見えていますが…^^;
さらに、埋蔵金のポイントを絞ったのが次の歌詞になります。
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「♪夜あけのばんにん。 つるつるつっペった。」
まず夜明けとは、「徳川の夜明け」のことで、
これは、徳川家康が築いた浜松城(※)のことを指しています。
※浜松城は、天下統一への足がかりとなった「出世城」とも言われている。
徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、
特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。
家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えるでしょう。引用:https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/facility/history.html
次の「ばんにん」は「番人」のことで、
つまり「徳川の番人」という意味です。
「徳川の番人」とは?
これは、江戸の北を守っていた「会津藩」を表しているとのことです。
会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。
https://ja.wikipedia.org/wiki/会津藩
そして、次の「つるつるつっペった」の「つるつる(非常になめらかな)」
「つっぺった」は 滑 ったと言う意味もありますが、江戸の方言では、「詰まっていた鼻が通った」と言う意味があるそうで、
「夜あけのばんにん。 つるつるつっペった。」の歌詞は、浜松城と会津を(なめらかに)通った…
つまり、浜松城と会津を真っ直ぐ通ったと言う意味になります。
ここまでをまとめると、かごめかごめ(十二支)の中心に江戸城をおき、「子」の位置には、日光東照宮を…
そして、江戸城から見て「酉と亥」の方角に線を引き、さらに浜松城と会津に線を引くと次のようになります。
つまり、上の画像の線が交わった、「A地点」と「B地点」に埋蔵金が2つに分けて蓄えられていると言うことを「かごめかごめ」が伝えているのです。
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コメント
第2章を拝見ました。
大変勉強されていて、驚きました。
これはヤバいですね。
TV局からオファーがあるまで埋蔵場所を隠しているんですが、見つかっちゃいそうですね。
第3章は、三枚の銅板の解読ですね!楽しみに待っています。
165さん
またブログの方に来てくださってありがとうございます^^
昨年2番組で徳川埋蔵金の発掘が再開したこともあり、『ギミア・ぶれいく』を夢中で観ていた頃を思い出して書き始めたという感じなので・・・ほぼにわか知識で恥ずかしい限りです^^;
2ch掲示板(6箱目)の方も読ませていただいておりますが、
165さんは埋蔵金の場所を住所付きでTV局の方へお伝えされているんですねw|;゚ロ゚|w 凄いです!
オファーがあると良いですね!
165さんがTV局とタッグを組んで、徳川埋蔵金を発掘するのを楽しみにしております((o(^-^)o))わくわく
とても面白かったです!
永遠の浪漫にしておきたい気持ちと、もし出て来たら…の気持ちが入り混じります。
もし出て来ても、何千億以上の価値がありますし、徳川家の財宝展なんかで世界中を巡回出来そうですよね。
生きてる間に見つからないかなー(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎)
りんさん
読んで下さってありがとうございます^^
僕もそう思います! 生きている間に出てきてほしいですよね~o(^-^)o ワクワクッ
ですので、微力ながらですが徳川埋蔵金の謎に足を踏み入れてみました^^;
間を空けての更新となりそうですが、3章もよろしくお願いいたします(^o^)/
当時の『ギミア・ぶれいく』は夢中になって見ていたので、懐かしく読ませていただきました。
江戸城開城の時の消息を改めて調べてみたいですね。勝海舟は「そんなものは逼迫して使っちまってなかったのさ」と発言してます。開城に邪魔な新撰組の近藤勇を「大名にしてやる」と言って甲府に追い払ったり、「西郷隆盛との開城の談判が失敗すると江戸に火を放て」と、博徒に指示を出していた策士の海舟のこと、発言は鵜呑みにはできません。
一般的に考えても、巨大な国家組織が崩壊する際に、さすがに無一文ということはないでしょう。
小栗上野介と海舟は不仲のため、この件で消息を通じていたとも思えず(不仲を装っていたなら別ですが)、一体誰がこの金を差配していたのかが、謎として残ります。
個人的には勝海舟はちゃっかりとこの金を他所に移し、維新後の徳川家や窮乏した士族の援助、内容によっては新国家へと基金的なうまい使い方をしていたのではないか、と推測します。少なくとも「徳川家の復興」のような、さらに混乱を招く下らない使い方となる余地を、慧眼な海舟が許すはずがない。
ひょっとすると西郷とも、この件についても腹を割って話していたかもしれません。維新後に旧幕臣からは汚名をかけられながらも、その隠れた管理者として睨みをきかせるため、あえて新政府の高官の立場に着いていたような気がします。
埋蔵金として「4,000億円」はたしかに大金ですが、オリンピックに3兆円かかることを考えると、国の大事業の前でははした金です。こうした「維新後の治安維持」的な使い方くらいで、ちょうどよい金額だったのではないでしょうか。
これはあくまで想像で、歴史的事実はきちんと検証する必要がありますが、決して表に出てくるような類の話ではないでしょう。しかし、なんとなくありそうな気がします。
埋蔵金の話とはちょっとズレますが、こうした可能性を考えるのもまあひとつのロマンです。