【闇深】消息を絶って生死不明になった著名人

行方不明事件
1: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:33:37 ID:0ok
消息を絶って生死不明になった著名人って誰かおる?
副大統領ネルソン・ロックフェラーの息子とか、悪魔の辞典で知られるジャーナリストのアンブローズ・ビアスとか
帝国陸軍参謀で戦後国会議員だった辻政信みたいな
消息不明になった有名人おったら教えてほしい
 
 

2: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:34:28 ID:0ok

マイケル・ロックフェラー(Michael Clark Rockefeller, 1938年5月18日 – 1961年11月17日以降)は、アメリカ合衆国の民族学者。ネルソン・ロックフェラーの息子で、ロックフェラー家の一員である。

ハーバード大学で民族学を専攻、その過程でニューギニア・イリアンジャヤの部族に興味を持ち、特に、ダニ族と当時首狩りの風習が残っていたアスマット族の研究を行ない、彼らの木彫りの美しい美術品を収集するなどしていた。

しかし、1961年11月17日、仲間のオランダ人学者と共に研究から帰る途中、乗っていたポンツーンが風に煽られて転覆、「助けを呼びに行く」と言って彼を残して岸へと泳いで行ったまま、消息を絶った。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/マイケル・ロックフェラー

ちなwiki

 

4: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:35:08 ID:0ok

アンブローズ・ビアス

1913年10月、71歳のビアスはワシントンD.C.を発ち、かつて関わった南北戦争の旧戦場をめぐる旅に出た。
12月までの間にルイジアナ、テキサスを通過。エルパソを抜け、当時メキシコ革命のために混乱状態にあったメキシコに入国した。シウダー・フアレスでパンチョ・ビリャ軍にオブザーバーとして加入し、その立場でティエラ・ビアンカの戦いを取材した。

チワワ州チワワまではビリャ軍と行動をともにしていたことが知られている。
この街から古馴染みのブランシュ・パーティントンに1913年12月26日付で宛てた「私自身もまた、明日ここを去ればその先どこに向かうかはわからない」と記した手紙を最後に消息を絶った。

ビアスの失踪はアメリカ文学史上もっとも有名な失踪事件のひとつとなった。
その行方を探る試みは何度も行われたが発見されることはなく、行き止まりの洞窟に入って二度と出て来なかった[14]、戦場で横死した、チワワ州シエラ・モハダで銃殺刑に処された、そもそもメキシコに行ったという確かな証拠はない、と、諸説さまざまである。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/アンブローズ・ビアス

 

5: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:35:27 ID:OoG
死体で発見されたけどクレヨンしんちゃんの原作者も見つかるまでしばらく消息不明やったな

 

8: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:38:04 ID:0ok
>>5
臼井儀人かあ
登山中の滑落死だったらしいけど

 

6: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:35:32 ID:5d8
日本人はいないの?

 

7: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:36:49 ID:0ok

>>6


辻政信

ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。
軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた。

その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。

敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。
政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任した。
参議院議員在任中の1961年(昭和36年)4月に視察先のラオスで行方不明となり、1968年(昭和43年)7月20日に死亡宣告がなされた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/辻政信

 

12: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:39:38 ID:iPY
>>7
明らかに異常だけど普通失踪扱いなんやな

 

15: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:44:25 ID:0ok
>>12
戦場での消息不明とか船の沈没とかほぼ死んでるやろって状況じゃないと特別失踪にならんからね

 

9: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:38:30 ID:sLQ
風船おじさん

 

11: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:39:06 ID:Q7O

>>9
先に言われた

 

13: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:40:06 ID:0ok
>>9
ファンタジー号やっけ?
風船で太平洋横断しようとして消息不明か

 

22: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)02:56:03 ID:IK9
風船おじさん

 

23: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:02:31 ID:0ok

>>22
風船おじさんはどこまで行けたんやろね

鈴木嘉和
1989年に横浜博覧会で立て籠もり事件、1992年4月に風船をつけた椅子で飛び立って1時間弱飛行した末の不時着事故とニュースになる騒ぎを2度起こした。
同年11月に風船をつけたゴンドラでアメリカへ向けて出発したが2日後に連絡が途絶えてその後の消息は不明である。最後の事件がワイドショーを中心にマスコミで報じられたことで風船おじさんの名で知られることになった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木嘉和

 

10: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:38:57 ID:DLV
植村直己がそうやな

 

14: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:42:10 ID:0ok

>>10
はえー植村直己の遺体って見つかってないんやね

1984年2月12日、43歳の誕生日に世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となった。
3日後の2月16日小型飛行機がマッキンリーに行ったところ、植村と思われる人物が手を振っているのが確認されたが、天候も視界も悪かったために見失い、救出できなかった。

ただし、最終キャンプとして使っていた雪洞に大量の装備が残されていたことから、誤認である可能性が高いと考えられている。
その後明治大学山岳部によって2度の捜索が行われたが、発見されることはなく、植村が登頂の証拠として山頂付近に立てた日の丸の旗竿と、雪洞に残された植村の装備が遺品として発見されるに留まった。
やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られた。
消息が最後に確認された2月13日が命日となった。享年43。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/植村直己

 

16: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)01:52:47 ID:0ok

有名どころだと作家でパイロットのサン・テグジュペリとか

亡命先のニューヨークから、自由フランス空軍(自由フランス軍の航空部隊)へ志願、再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ赴き、1943年6月に原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)に着任する。

新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、その直後に着陸失敗による機体破損事故を起こし、1943年8月に飛行禁止処分(事実上の除隊処分)を受けてしまう。
必死の尽力により復帰を果たすと、爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視する形で、1944年5月、サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していたII/33部隊に戻った。
部隊は後にコルシカ島に進出。
1944年7月31日、フランス内陸部グルノーブル、シャンベリー、アヌシーを写真偵察のため、ロッキード F-5B(P-38の偵察型)を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃後、地中海上空で行方不明となる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

 

17: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)02:02:27 ID:0ok

アガサ・クリスティみたいな一度失踪して消息不明になったけどその後で発見された例もおk

アガサ・クリスティ失踪事件とは、ロンドン近郊の田園都市サニングデールに住んでいたアガサ・クリスティ(当時36歳)が1926年12月3日、自宅を出たまま行方不明となった事件を指す。
警察は行方を探す一方、事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて捜査をした。

有名人の失踪、複雑な背景は結果として新聞の興味を掻き立て、報道により事件を知った大衆から多数の目撃情報が寄せられた。
その検証のために大勢の人間が動いた。
捜査機関を含む関係筋から動員されたのは、延べ人数で数千人に及んだとされる。
マスコミの盛り上がりによりドロシー・L・セイヤーズやアーサー・コナン・ドイルもコメントを出した。

11日後、保養地のホテルに別人名義(夫の愛人のテレサ・ニール)で宿泊していた彼女が家族の確認の上で保護されることで決着した。
そのため、Agatha Eleven Missing と呼ばれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/アガサ・クリスティ

 

18: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)02:04:40 ID:0ok

日本人で言うと
我修院達也(若人あきら)みたいな

1991年3月3日、静岡県熱海市和田浜南の防波堤で釣りをしていた若人あきらが行方不明になった。
警察に届け出が出され、若人が3日後に発見されるまで大々的な捜索がなされ、同時にワイドショーやスポーツ新聞、女性週刊誌などマスメディアを騒がせることになった。
若人を捜索するのにかかった費用は約300万円だったという。

事件から12年後の2003年になって、北朝鮮による拉致の可能性を『週刊新潮』が警察庁警備局の関係者の話として伝聞調で伝えて、改めて事件がクローズアップされた。
これらの北朝鮮拉致説について、若人の反応は、『週刊新潮』の取材申し込みに返答はなく、『サンケイスポーツ』紙が匿名の関係者からの伝聞の形で「そんなこと、あるわけないじゃないですか」と一笑に付していたことを伝えている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/我修院達也

 

19: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)02:15:46 ID:0ok

女性パイロットのアメリア・イアハートの失踪とかも日中戦争直前で謎が多い

1927年のチャールズ・リンドバーグの快挙に続き、女性として初めての大西洋単独横断飛行をしたことから、ミス・リンディの愛称がある。
知的かつチャーミングな女性であったため、当時から絶大な人気があり、彼女の名前を冠された商品も多岐にわたっていた。
これらは出版人であった夫のジョージ・パットナム(英語版)の協力と手腕であったとされる。
最期のフライトも、7月4日の国民的祝日のアメリカ独立記念日にアメリカ本土到着を計画したもの、との見方がある。

1937年(昭和12年)には赤道上世界一周飛行に挑戦するが、同年7月上旬に、南太平洋において行方不明となった。
その後アメリカ海軍と大日本帝国海軍により大規模な捜索が行われたが、機体の残骸や遺体が発見されなかったことから、イアハートの失踪が「ミステリー」として取り上げられることとなった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリア・イアハート

 

20: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)02:35:15 ID:0ok

人間兵器桜花の開発者の太田正一
戦後戦犯指定逃れるために国内で失踪してずっと別人として暮らしてたらしい

大田は基地から離れた金華山沖の洋上に着水し漁船に救助され生還。
行方不明者として名乗り出ることもなく、戦後の混乱に乗じて別人を装っていたが、生涯無戸籍のままであった。

「青木薫」を名乗り各地を転々とした後、「横山道雄」と名乗って大阪市で家庭を持ち二人の子供を儲けたが、無戸籍のため職を転々とした。
家族には、自分の正体についてはほとんど語らなかった。
1994年12月7日、京都市左京区の日本バプテスト病院にて癌で死亡。
墓石には妻の姓のみ刻まれており、大田自身の名は一切刻まれていない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/大田正一

 

21: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)02:53:49 ID:0ok

ナチス逃亡犯なんかも30年以上イスラエルのナチスハンターから逃げ延びてるからすごいわ
ヨーゼフ・メンゲレなんて最期は海水浴中の心臓麻痺で死ぬまで35年間消息不明だった

1949年、戦争犯罪追及を逃れようとする元ナチ党員の多くとともに、メンゲレはアルゼンチンに逃亡し、中絶手術など種々の仕事に就いたのち、母国の富裕な家族の支えで薬品会社の共同経営者になる。

1954年、メンゲレは妻・イレーネと離婚し、1956年には変名でドイツを訪れ、1958年に弟・カールの未亡人・マルタと再婚した。
なお、イレーネとの離婚の際、離婚手続きを行うためにドイツ大使館に出向いて書類に本名で記載している。
この書類とともに提出された写真が戦後公式記録に残る唯一の写真となった。

彼女と息子はメンゲレに会うためにアルゼンチンへ移る。
1960年のアドルフ・アイヒマン逮捕以降、イスラエルの追及を逃れるためにチリのビジャ・バビエラなど、南米諸国を転々とする彼を追い詰めようと国際逮捕状が出されるなどの国際的な捜査が行われた。
しかしドイツ人コミュニティやこれらの政府の助けにより、様々な名で隠れ住んだ彼は逮捕されることなく戦後35年間を生き延びた。

メンゲレが1960年代に訪れていたカンディド・ゴドイというブラジルの村では、ナチスの主張する「アーリア人的特徴」を備えた双子が次々に生まれる現象が起きている。

この村では1960年代にメンゲレ風の医者に薬を提供された証言が残っており、実際にこうした現象が起きていることからメンゲレの実験が成功したとみる学者もいる[2]。

だが、孤立され比較的に近親交配率が高い小さな村で双子が多く生まれるのはカンディド・ゴドイだけではなく、しかもこの村で双子が生まれる高い確率は1990年代までも続いていたため、メンゲレが直接関係していた可能性は薄いとブラジルの学者は主張している[3]。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨーゼフ・メンゲレ

 

25: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:03:53 ID:4ri
横田さん

 

27: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:06:52 ID:0ok
>>25
拉致事件も何年も経ってるけど結局わからんのよね

 

26: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:06:25 ID:OTl
遺体が発見されてないってのはOK?

 

28: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:07:19 ID:0ok
>>26
おk
あと最近じゃなくて歴史上の人物でもええで

 

31: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:11:52 ID:gSM
朝比奈泰朝

 

33: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:19:36 ID:0ok
>>31
今川の家臣か
戦国武将とかはわりと消息不明の人おるよね
明石全登も大坂の陣以降消息わからんし

 

34: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:22:03 ID:0ok

ちな明石全登

その後の消息は不明である。
『徳川実紀』『土屋知貞私記』『石川家中留書』など徳川方の複数の家伝が全登はこの戦いで討ち取られたとし、『大坂御陣覚書』『大坂記』は水野勝成家臣の汀三右衛門が首を獲ったとし、
『石川家中留書』では石川忠総がその手で討ち取り、全登が豊臣秀頼から賜った吉光の短刀も分捕ったとする。

このように幾つかの史料は戦死説をとるが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、
『大村家譜』『山本豊久私記』など幾つかは嫡子内記と共に九州に、また『戸川家譜』『武家事紀』には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あって判然としない。

もし南蛮へ渡ったとすればイエズス会文書などで特筆されるはずだが、全登の消息は記されていない事から南蛮逃亡説は空想の産物であろうとされている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/明石全登

 

35: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:24:07 ID:SHm
宗教は多いぞ

 

36: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:27:26 ID:0ok
>>35
宗教絡みの失踪はいっぱいあるんやろね
表沙汰になってないのも

 

41: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:42:57 ID:ZmZ
竹井みどりとかそういうスレではないのか

 

43: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:44:15 ID:0ok
>>41
引退してそれ以降音信不通みたいなことか
泳げたいやきくんの子門真人もそれだね

 

44: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:46:19 ID:ZmZ
>>43
昔の時代劇女優ってそういう人多いよね
仁和令子みたいに復帰後すぐ亡くなるケースもあるし

 

45: 名無しさん@おーぷん 19/11/01(金)03:50:20 ID:0ok
>>44
昔は結婚して引退みたいなの多かったよね
今はママタレになって出続けるけど
 
引用元:https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1572539617/
 

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