自分が最近見たヤツ
ポーリーン・ピカール失踪事件
1922年4月、2歳のポーリーン・ピカールがフランスのブルターニュ地方にある家族の農場から姿を消した。ゴアス・アル・リュデュ村は大騒ぎになり、150人以上の人々がピカード家の農場と周辺の森を捜索して行方不明の幼児の痕跡を探した。少女の痕跡が見つからないため、捜索は停滞した。ポーリーンの悲嘆にくれる家族は、彼女が迷子になって野生動物や自然の中で最期を迎えたと思っていた。
1ヶ月後、警察がピカード家の農場にやってきて、200マイルほど離れたシェルブールという町で1人でさまよっている少女の写真を持ってきた。ほっとした両親は、その写真がポーリーンのものであることに同意した。どうやって家から遠く離れたのかは誰にも想像がつかないが、両親はすぐに列車でシェルブールの町に行き、行方不明の娘を取り戻した。
しかし、ピカード家の者たちはその少女に会ったとき、自信がなかった。彼女はポーリーンの痩せた姿のように見えたが、ピカードたちが家で話していたブルトン語を話すようには見えなかった。ピカード家の人々は彼女に愛情を注いだが、彼女は彼らを認識しているようには見えず、見知らぬ人に見せたのと同じような赤ちゃんのような優しさを見せていた。
その後数週間は不確実性に包まれていた。新聞は、彼女がブルトン語を少し話していたとも、少女は喃語を話していただけだとも報じた。ポーリンの両親は、奇妙であろうとなかろうと、これがポーリンだと受け入れていた。村の人間がピカードの家の近くで頭部が切断されている子供の死体を発見するまでは。遺体は裸で横たわっており、捜索員が何度も捜索したはずの場所に腐敗した状態で放置されていた。遺体の横には、ポーリーンが行方不明になった日に着ていた服がきれいに畳まれていた。また、その近くで激しく損傷した男性の切断された頭も見つかった。
ゴアス・アル・リュドゥ村は再び混乱に陥った。検察局が到着するまでの3日間、村人と警察が交代で死体を見張っていた。死んだ少女は誰なのか?頭は誰のものだったのか?そして、この3週間ピカード家で暮らしていた少女は誰なのか?
こわい
これ初めて知ったわ
満足したわ
続き
村では誰が子供を殺したのかという憶測が渦巻いていた。警察は一家のために働いていた傘のセールスマン、クリストフ・ケラモンを調べた。彼はポーリンがいなくなった朝、ピカード家の人々と朝食を共にし、ポーリンのことが大好きで、しばしばポーリンを抱きしめたり、他の町で「いい家を見つけてやる」と言ったりしていた。警察は彼を逮捕したが、後に彼のアリバイが確認されたため、最終的には釈放された。
他の人々は、イヴ・マルタンという男を疑っていた。マルタンは遺体が発見される前にピカール家の農場を訪れ、「シェルブールの少女は本当にポーリーンなのか?」と訪ねた。その翌日、彼は警察の取り調べができないほどの状態で精神病院に収容された。この話は、ポーリンの死に対する罪悪感から、彼が倒れたことを暗示しているように見えるが、後にメディアは、事件の前に彼が別の事故によって脳に外傷を負っていたとも報じている。
またある説によると、金持ちの夫婦が自分たちの娘の代わりにポーリーンを誘拐したというものがある。動機は、娘が死んだことが知られたら遺産を失うからというものだった。農場で発見された死体こそがその夫婦の本当の娘だったということだ。この説は、ポーリンが失踪した日に見知らぬ二人の人物がポーリンを見ていたというある証言とうまく結びついていたが、この説には手がかりも証拠もなかった。
ピカード家は死体がポーリーンのものであることに同意したが、彼女の死因を理解するまでには至らなかった。検死官は少女の死因が暴力によるものなのか、動物によるものなのか、それとも自然環境によるものなのかを判断できなかった。最終的にポーリーンは 癇癪を起こして 迷子になり、凍死したと結論付けた。一部の警察を含む地元の人々は、動物が腹部を食べる前に頭と四肢を食べることはありえないと指摘し、殺人の疑いを持ち続けていた。
ピカード家は、シェルブールの少女はポーリーンではないと判断した。彼女はマリー=ルイーズ・ポーリーヌという名前を与えられ、シェルブールに送られ、ノートルダム・ドゥ・ヴォーのフランシスコ会のシスターに預けられた。彼女は、1924年のはしかの流行期にシスターの世話を受けるも亡くなった。
ピカード家は死んだ少女の遺骨をポーリーン・ピカードという名前で地元の墓地に埋めた。後に彼女の両親も一緒に埋葬された。彼女の死亡日は1922年4月6日と記載されており、彼女が姿を消した日である。
こういう荒い白黒写真ほんと雰囲気出るな
まあ今でも反ワクとか地球平面論者とかいるけど
オーラン・メダン号事件
第二次世界大戦終戦から3年後の1948年。
マラッカ海峡を横断していた船内で事件は起こった。
航海中だったアメリカの船、シルバー・スター号はインドネシアのマラッカ海峡で、無線を受け取った。
この無線は、インドのジャカルタに向かって航海中だったオランダの商船、オーラン・メダン号に乗っていた無線技士のラビットからの無線だった。
この無線は、インドのジャカルタに向かって航海中だったオランダの商船、オーラン・メダン号に乗っていた無線技士のラビットからの無線だった。
ラビットは焦った様子で「私以外の船員全員が“何か”に襲われて、突然口から血を吐き、倒れている。倒れている船員の何名かは既に命を落としているが、まだ生きている者もいる、どうにか助けてやってほしい。そしてまもなく、私も彼らと同じ道を辿るだろう。」と話した。
シルバー・スター号の無線技士が詳しく話を聞こうとしたが、無線は途中で途切れてしまった。
事は一刻を争うと、オーラン・メダン号の救助に向かうことにした。
マラッカ海峡には、複数の無線中継基地があった為、無線中継基地の協力を得てオーラン・メダン号の位置を割り出したのだ。
この時、無線を受け取ってから既に3時間が経過していた。
オーラン・メダン号の横に並び、拡声器などを使って船員に対して何度も呼びかけを行ったが、応答がない。
「まさか。」と思ったシルバー・スター号は、船員をオーラン・メダン号に乗り込ませたところ、そこには衝撃の光景が広がっていた。
先ほどラビットが助けを求めたように、船員全員が直視できないような形相で亡くなっていたのだ。
ペンを持ったままの者、目を見開いたままの者、座り込むようにして目の前に向かって両手を伸ばしたままの者。
人間だけでなく、船内で飼われていた犬も死亡していた。
血を吐いている以外には、外傷が一つもない。
そして彼らを乗せている船、オーラン・メダン号自体も全くの無傷であった。
シルバー・スター号の船員たちは、その惨い状況にしばらくの間言葉を失っていたが、とにかくオーラン・メダン号が航行できるかを調べなければと、船室の扉を開けようとした瞬間、突然、爆発音と共に船から出火。
「このままでは船ごと爆発してしまう!」と、危険を感じたシルバー・スター号の船員が救命ボートへ乗り込んで船から離れると、それを待っていたかのように、オーラン・メダン号は大爆発した。
船員たちに何があったのか、調べる間もなく瞬く間に海の藻屑となって、沈んでしまったのだ。
シルバー・スター号がこの不可解な体験をした後日、地元警察によって調査されたが、結局詳しい沈没原因が特定されず、船員の死亡原因についても船が炎上したこと、バラバラとなって沈没しているため、手掛かりがほとんどなく、今現在も謎に包まれている未解決事件となっている。
江東区のOLが殺害された事件でも犯人が捕まる前にインタビュー受けてたけど、どんな気持ちで受け取るんやろな
犯人ってこう言うこと言うんだよな
普通はボロが出るんだけどな
これよう見るが動機とか謎で怖いな
そうか?
うるさかったんじゃね
前書いたけどワイの体験談需要あるかな
昔目黒線の洗足に住んでいた頃、隣駅の西小山のミニストップにハロハロを食べに行きたくなって家を出た。ちょうど今頃の時間や
>>48
続き。ちなみ解決ではないで
ワイが午前3時頃、西小山の駅前の路上を歩いてたら、物音がして、アパートの二階の通路から下を窺っていた男と目があった。
時間にして数秒くらいに感じたかな
なんかやばそうやと思って目を離せないでいた時、ちょうど警ら中と思われるお巡りさんのチャリが通りを走ってきたんや。男はサッとアパートの奥の方にひっこみ、ワイは怖くなってコンビニまで猛ダッシュしてハロハロは買わずに時間潰して帰った。
翌朝、ニュースで西小山のラーメン店店主夫婦が殺害されたという報道をやってた。まぁ犯人は数年後に逮捕されて実解決やないんやけど生きた心地せんかったわ
なんでラーメン屋の夫婦殺したんや?
面倒見てた留学生に裏切られたとかそんな話やったはず
金品目当ての強盗殺人やで
さんがつ
恩を仇で返されたんか
夜中に散歩しててなんか踏んだなーと思ったらゴキブリやった
よく見てみると公園の東屋の下に何匹ものゴキブリがいる、いったいどこから来たのかよくみると
公園の水飲み場の柵、そこの下からやった
昨晩の話や
歌舞伎町ビル火災
歌舞伎町ビル火災は、2001年(平成13年)9月1日未明に日本の東京都新宿区歌舞伎町にある雑居ビルで起きた火災。44人が死亡し、3人が負傷する被害を出した。
日本で発生した火災としては戦後(第二次世界大戦後)5番目の被害となった。多くの死傷者を出した原因は、ビル内の避難通路の確保が不十分であったためとされる。出火原因は放火とみられているが、現在でも未確定である(2022年7月時点)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/歌舞伎町ビル火災
あれ放火やったか?
放火で間違いないと言われとる
消防法が変わったくらいのデカい出来事やった
佐野植物公園
ググってサジェスト見てみ、ちびるぞ
定番やがシオンタウンとかな
途中の穏やかな音楽からの転調で背筋ゾーてなるわ
「わすれもの」やな
気だるさと決意が同居した名曲やで
確かにメロディもサウンドも不気味なところはある
昔はCDに変な声が入り込んでるとか多くて怖かったわね
それって元は歌詞が暗すぎてそれ流した次の日に自殺が急増するとかだったよな
あの曲は戦争で国中お通夜の中それとリンクする歌詞のシャンソン流して後追い続出とかそんなオチやった気するわ
よくセットにされるのは暗い日曜日、海辺の狂女の唄、カールマイヤーやっけ
カールマイヤーだけは憂鬱とは別の理由で聞かん方がええけど
どんな理由なんや
変な音ハイッテルとか?
静かになったと思ったら急にうるさい声が鳴ってびっくりするってだけや
ホラー系の理由ではない
茨城一家殺傷事件
茨城一家殺傷事件は、2019年(令和元年)9月23日未明に茨城県猿島郡境町若林の民家で、一家4人が殺傷された殺人・殺人未遂事件。
(中略)
重軽傷を負った長男Dと次女Eは「帽子とマスクの男に襲われた。犯人は1人だった」と証言し、近隣住民からも「事件前にマスクをした不審者を被害者宅で見た」という目撃証言が寄せられてはいたが、犯人特定の決め手とはならなかった。
地元の防犯協会などが100万円の懸賞金を出し、事件発生から1年を前に情報提供を呼びかけるポスターなど作成し、公開したが、被疑者Oの逮捕までに1年8か月を要した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/茨城一家殺傷事件
監視カメラに防護服の男が映ってたやつ?
解決してたんか
アレ無職が捕まってたで
動機は不明やが過去にも殺人未遂とか放火動物虐待やってたから恐らく快楽殺人や
続報消えたけどほんまにあの子やったんやろうか
湯河原の件も怪しいとか言われてたけどどうなんだろ?
埼玉から茨城まで自転車移動ね
岡庭はたしか、状況証拠だけらしいな
湯河原の監視カメラは確かに岡庭に似てるとも思った
これよね
切符も子ども料金で乗ってたり怪しい話だわ
10年くらい前に起こったトムラウシ登山の遭難事故の報告書がめちゃくちゃ詳細に遭難の内容が記されていて怖かった
トムラウシ 報告書とかで検索するとデテクル
こないだのスレでこの事件はじめて知ったんやけど素人でも映画化できそうなくらいwikipediaが充実しとるね
知床遊覧船も生存者がいたらこんな感じで全貌が知れたんやろか
wikipediaは報告書の内容をかなりわかりやすくまとめてあるね
知床はけっきょく詳細わからずじまいやからね‥
これするとどうなるん?
変な動画にリダイレクトされるらしい
ほーん
謎機能やな
怖くはなかった
2年くらい前にばあちゃん家から持ち帰ったこれと同じおもちゃが棚に飾ってたら突然動き出した
しばらくして動きが止まったから分解してみるとゼンマイは錆び付いてて動く状態じゃない
ワイと弟と母ちゃんが目撃して、しばらく歩き続けるおもちゃを家族で観察してた
今はそれから動いたことは無い
ロボコンか?カワヨ
ロボットはっちゃん言うらしいで
今から40年前のおもちゃ
ロボット8ちゃんやんけ!
こいつあたまにヘリチョンボいう新潟で言うたらアカンメカつけて空飛ぶんや
いてくれたら嬉しい
死んだら虚無だなんて悲しいやん
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12227553967
Googleレンズで速攻でたで
サンガツ
今の技術凄い
わかるわ
当時も特集組んで公開捜査とかしてたもんな
ナンペイとかさ
オウム前はワイドショー的手法のレベルが一番高いしな
手書きテロップもすこや
しかも国のトップが死刑宣告できるってやべーやん
悪魔の詩訳者殺人事件
悪魔の詩訳者殺人事件は、1991年7月11日に発生した殺人事件である。
2006年7月11日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。
(中略)
五十嵐は、1990年(平成2年)にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語訳している。1989年2月にイランの最高指導者、ルーホッラー・ホメイニーは、同書が反イスラーム的であるとして、ラシュディや発行に関わった者などに対する死刑を宣告するファトワーを発令していたため、事件直後からイラン政府との関係が取り沙汰されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/悪魔の詩訳者殺人事件
ちなつくばの教授以外の事件な
1989年2月12日:パキスタンのアメリカ文化センターにて1万人が暴動デモ、6人が死亡、100人が負傷。
1989年2月28日:米国カリフォルニア州バークレーにある書店で2件の放火
1991年7月11日:五十嵐一が刺されて死去。
1991年8月3日 :イタリア語版翻訳者エットレ・カプリオーロさんが刺されて重症
1993年7月2日 :トルコの文学祭に参加していた37人が暴徒によって引き起こされたホテルの火災により死去
1993年10月11日:ノルウェーでの出版責任者ウィリアム・ニゴールさんが3発銃弾を受け重症
あれこわい
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