昨年は、何かと暗い話題ばかり取り上げていましたので…^^;
今年は、日本全国に伝わる「埋蔵金伝説」という景気の良さそうな話題の方も取り上げて行こうかなと思っておりますのでよろしくお願いいたします。
と言うことで、いきなりですが…まず一発目は~!
日本で最も有名な都市伝説のなかの都市伝説「キング オブ 都市伝説」と称えても過言ではない
【徳川埋蔵金伝説】の謎を追ってみたいと思います。
…と言うのも、2016年12月21日(水)に放送された、林修氏がMCを務める番組
TBS系列「林修の歴史ミステリー 徳川家260年最大の謎」隠された財宝3000億円徹底解明で
「徳川埋蔵金シリーズ」が8年ぶり(最後に放送されたのは2008年)に復活したこともあり、
『ギミア・ぶれいく』徳川埋蔵金大発掘プロジェクトからのファンである自分としては、この話題を取り上げない訳にはいきませんでした^^;
・・・と言うことで、まず今回は初回なので、これまでの赤城山における埋蔵金発掘までの経緯と真相をまとめてみました。
徳川埋蔵金(とくがわまいぞうきん)
江戸幕府が密かに地中に埋蔵したと伝えられている貴金属(金塊あるいは貨幣)である
埋蔵金の在処は諸説あるが、現在まで見つかっていない。
徳川埋蔵金発掘のあらまし
1868年4月。徳川太平のシンボル・江戸城が無血開城となり、明治新政府に明け渡されました。
700年近く続いた武士の時代が終わり、新時代がスタートした瞬間です。
当時財政難に喘いでいた明治新政府軍が真っ先に捜したもの…
それは幕府が所有しているはずの御用金である「金360万両」…現在の貨幣価値でおよそ「4000億円」※という資産でした。
※テレビ番組『ギミア・ぶれいく』放送当時は200兆円とも言われていた。
重量が162、56キログラムもある大法馬金※と言う金塊だったそうです。
ところが、金蔵は空っぽ・・・
こうして、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まったのです。
それから10数年、この幻の御用金を巡って様々な考察が為された後、群馬県・赤城山中に埋められているとの噂※が流れます。
※大政奉還当時勘定奉行であった小栗上野介忠順( おぐり こうずけのすけ ただまさ )がまず疑われ、小栗が上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠遁していたことから、
赤城山中に徳川埋蔵金360万が埋められていると推測された。
以降、数多くの人によって発掘が試みられたものの、時代が明治、大正、昭和に移り変わっても大した成果は得られず、
いつしか人々の記憶から忘れ去られていきました。
時は流れて、1990年代初頭。
徳川埋蔵金発掘は、テレビ番組『ギミア・ぶれいく』のプロジェクトによって再び、脚光を浴びることとなります。
コピーライターである糸井重里氏がリーダーとなり、発掘チームが結成され、
バブル期ならではの莫大な資金をもって実施されたこの埋蔵金大発掘プロジェクトは、毎回20%以上の高視聴率をたたき出すほどの人気番組となり、
1995年に終了するまで、のべ7回もの特番が組まれました。
筆者もこの放送を毎回ドキドキしながら観ていたことを憶えております。
作業開始にあたって、番組は「水野家」という祖父・父・子の三代に渡って埋蔵金の発掘に挑戦する一族と手を組みます。
この水野家の初代・智義(当時三十一歳)が埋蔵金発掘に目覚めたのは、明治16年のことでした。
かつて幕府軍の武士だった「中島蔵人」という男から、一通の手紙を受け取ったことに起因します。
「中島蔵人」が死の間際、義理の息子の水野義智に伝えた情報こそが、幕府再興のために秘匿された軍資金・金360万両の手がかりだったのです。
この「中島蔵人」という人物の証言が非常に重要なので、詳しく下記に載せさせていただきました。
と言うのも中島蔵人は埋蔵金隠匿に直接関わった当事者であり、その彼が語ったという事は信憑性が高いとも言えるからです。
中島蔵人が死の間際に智義に伝えた情報。
↓
智義が蔵人のもとに駆けつけてみると、蔵人は病に冒されており、明日をも知れぬ体であった。
その蔵人は、智義に向かって予期せぬ話を始めた。それは、幕府の勘定吟味役であった蔵人が 、慶応4年(注・幕府が滅亡する年)の1月から4月、幕府の要人の指示で甲斐国甲府に赴き、
甲府城代の柴田監物とともに甲府の幕府御金蔵にあった24万両を上野国榛名山方面に運び、その地へ隠匿した、というものであった。また、やはり要人の指示を受けた別働隊によって江戸から数百万両の御用金も上野方面に運ばれて隠匿されたはず、と蔵人は続けた。
蔵人によれば、榛名山の隠匿場所に行ってみたところ、すでにそこは掘り出されていたので、「柴田殿が赤城方面に移したのに違いない」と確信した、という。
また、蔵人は「自分は甲州の24万両にだけ関与しており、江戸からの金子については知らない」と語ったとされる。
蔵人は智義にこの赤城方面に眠る埋蔵金の発掘を厳命しつつ、息を引き取った。
そして、明治10年4月(一説に前年3月)から約1ヶ月間、智義は初めて上野に赴き、御用金に関する資料や伝承を渉猟した。
その結果、智義は御用金の隠匿に多少なりとも関係があると思われる 次のような人々の存在を知る。
A 元・双永寺住職、宮林雲行(うんぎょう)
B 謎の武士、児玉拡平(惣兵衛)
C 旅館の主人・角田恒二郎
D 恒二郎の義理の従弟・角田源次郎
これらの人々の証言や行動を継ぎ合わせて行くうちに、慶応2年1月から10月の間、前橋藩士・松村竹二郎と名乗る人物を首領とする武士数十人が、
領民ら100人以上を動員して津久田原で何らかの作業をしていたことを突き止めた。
作業をしていた場所は角田源次郎がかって掘った井戸(源次郎の井戸)から、さほど遠くない場所と推測された。「埋蔵金の隠匿場所は津久田原に違いない!」という確信を抱いた智義は、明治16年(1883)頃、 この地に移住して発掘に着手するのである。
引用:http://sky.geocities.jp/amb_akagi/mytown/f-maizoukin/
(━_━)ゝウーム
中島蔵人が義理の息子の義智に死の間際、埋蔵金のことで嘘をつく必要は無いと思われますので・・・
少なくとも甲州金24万両(現在の貨幣価値でおよそ270億円)がどこかに…
これだけでも探す価値はあるんじゃないでしょうか。
さらに明治23年には、黄金?の徳川家康像を発見。
▲黄金の家康像
この黄金の家康像は、詐欺にあい水野家にはないそうです。
実は、この徳川家康の黄金像が決定的な物的証拠として発掘がはじまるのですが、その後、黄金像を巡り波乱が起こってしまうのです…
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コメント
はじめまして
埋蔵金発掘が趣味の人の165です。
上手にまとめられていて感心しました。
おお!うちのHPの画像が使われている!って、うれしくなりました。
埋蔵金の楽しさを広める協力は惜しみませんので、お気軽にメールでお問合せください。
今後ともよろしくお願いします。
165さん、コメントありがとうございます。
はじめまして弓岬(ゆみさき)と申します。
よろしくお願いいたします。
165さんのサイト非常に興味深く拝見させていただきました。
今回、お断りもなく資料を使わせていただきまして、すいません…汗…汗
昨年は、世界の何だコレ ?ミステリーでトレジャーハンターの八重野さんが発掘されてましたし、
林修氏の番組では、三枝氏が発掘していた現場をこれから総掘りするようなので、
『ギミア・ぶれいく』の頃から徳川埋蔵金発掘に注目している自分としては、ドキドキ ワクワクが止まりません^^
個人的には、三枝氏の現場よりも、八重野さんと高橋さんが掘られている場所が非常に気になります。
双永寺の床下から発見された3枚の銅版を信用するのであれば、
お二人の暗号解読は何となく的を得ているような気がして…興味深いです。
世界の何だコレ! ミステリー 徳川埋蔵金SP! 第3弾が楽しみですね。
何かわからないことがありましたらお言葉に甘えてメールさせていただきますので、
こちらこそ今後共よろしくお願いいたします。
弓岬
メールありがとうございます。
埋蔵金って、ワクワクしますよね。
三枚の銅板のうち、謎文の銅板をよく読むと矛盾に気が付き、解読ができますよ。
しかも解読のヒントは、すでに弓岬さんもご存じだという驚愕の事実w
私もUMA、宇宙人、オーパーツは大好物でございます。
これからもよろしくお願いいたします。